今年を「残す」

 久々の投稿となります。ここ数日間、来年へ向けた作品の方向性や構想を練ったり少し早めの大掃除をしたりなどでちょっと更新が滞っていましたが、再開したいと思います。恐らく今年最後の投稿となりますが、最後もダラダラとした感じで締めくくらせて頂きます。

 

 さて、前回まで絵具の話をしていたので、その続きとなりますが、今回は素材があーだこーだというよりは少し概念的な話、画家と絵具の関係性について考えたいと思います。そもそも画家とは何なのか?その画家によって絵具はどのような意味を持つのか?といった話になるので、こういった話が苦手な方は軽く流しておいて下さい。

 

 今一般に絵を生業として生活されている方の呼び方は色々あると思います。アーティスト、現代美術家、洋画家、日本画家、イラストレーター、漫画家…等々。様々な呼び方がありますがどの様な画家でも描くもの、つまり画材がなければ仕事にはなりません。近年はPhotoshopやillustratorなどの優れたソフトがあるのでパソコンで描画作業を行う人も結構いますが、そうしたソフトも一つの造形物を作り出すという意味では立派な「画材」だと言えます。先史時代に描かれたであろうラスコーやアルタミラの洞窟壁画も、灰や赤土を血や樹液で溶かしたものですが、これも立派な画材です。勿論その時代に画家とかいった概念は存在していなかったでしょうが、人の造形欲求に応えた名もなき画家はいました。ただ、現存しているのがラスコーなどの洞窟壁画というだけで、絵を描くという行為自体はそれよりももっと前にもあったんじゃなかろうかというのが勝手な僕の憶測です。例えば木の枝を使って柔らかい砂の上に絵を引っ掻いて描いてみたり、枝が無くても指でなぞってみたり…恐らく僕達が幼心に描いていた落書きの様な遊びを、先史時代の人々も行っていたんじゃないかと思うんです。そういうものは形として残らず、すぐ消えてしまいますから、現代においては当時の原人が何を思って描いていたかなんて到底知ることもできません。

 では画家とそうでない人の境界線はどうやって決まるのか?ということですが、現代の様に画材が多様に溢れかえっている様な時代においては、別に画業を専門にしていなくてもその気になれば絵は誰にでも描ける訳です。それが上手いか下手か、社会的評価を得られるかどうかは別にしてもです。

 「じゃあ誰でも画家になれるんじゃないの?」と思うでしょう。でも「画家」というのはあくまでも客観的な見方なので他者からの評価があってこそ存在できるものです。よく言われる「日曜画家」というのも、自分が画家だと自尊心を持って

描いていてもその絵を誰にも見せることなく亡くなってしまえば「あの人は画家だった」なんて言われることはまずありません。かの有名なヘンリー・ダーガーの絵も、誰も見つけることがなければ彼が画家であったなんて思わなかったでしょう。

 勿論僕は、誰にも知られることなく消えていった絵に何の価値も無いとは到底思いませんが、絵を描く・形にするといった行為は、何かしらの意味を「残す」ことなんじゃないかと思います。それだけで自己完結する絵もあるでしょうが、ラスコーやアルタミラの先史時代の人々がわざわざ「残る」形として画材を用い、絵を描いたのは具体的な誰に伝えるとかでは無く、「残す」こと自体に意味を感じていたんだと思うんです。多分、残る姿を具体的にイメージしていたとかではなくて潜在意識の中で感じていたんじゃないかなぁ…というのが勝手な憶測です。

 簡単に纏めると、画材というのは画家が何かしらを「残す」為の材料であるという、至極明瞭なことなのです。

 

 

 随分と勝手な概念の説明になってしまいましたが、今年の投稿もこれまでとさせて頂きます。今年は色々と不作な年だったので、来年こそは作品をドンドンと発表出来ればなと、思っています。

 

 ではまた。よいお年を!

年末に描いた一枚です。紙はわざとしわくちゃにしています(もっと古書っぽくしたかった…)。