目の付け所が・・・

また一か月近く更新をさぼってしまいました。お恥ずかしい限りです…

 ここ一か月の制作状況ですが、可もなく不可もなくといったところです。作品のアイディアもそれなりに出てきて、小作品をコツコツ作りながらという具合なのですが、「あーーー、ダメだ。でっかい作品作りたいなー」とか「一回でいいからコンクールで大賞取りたいわー」とか、そろそろ煩悩が溢れてきそうなので少しずつ作品のサイズを上げて行く予定です。

 

 さて、今日の小話ですが、前回が具象と抽象の関係についてだったので、それに繋げて、具象絵画における「実像」について考えてみたいと思います。

 まず、具象画というのは「描かれている対象が人の目に見えるものであること」「実在の対象を描くこと」がざっくりとした定義になるでしょうが、そもそも「人の目に見えるもの」「実在の対象」とは何なのか、ということから理解しなければなりません。言わずもがなですが、人間と人間以外の動物では見てるもの、見えているものに違いがあります。それは顔についている目の位置や色覚、行動特性など、生物学的な観点からも明らかに差異がみてとれるからです。トンボの特徴的な複眼が良い例ですが、やはり虫にしか見えないもの、魚にしか見えないもの、人間にしか見えないものがあるようです。これは決してオカルトだとか、霊的なレベルでの話ではないと思います。

 それに勿論、人間個人の間にも、見えるものに差はあります。これは少し精神的な話になりますが、例えばある商品の開発研究において、特定の人物が革新的な発見をして社会に大きな貢献をもたらしたとします。すると「あの人は目の付け所が違う」「よくこんなことに気付いたね」といった賞賛を受けます。これはつまり「その道のスペシャリストにしか見えないもの」があるということです。猫を描くために遮二無二猫を見続けていたら、その人にしか見えないものもいずれ見えてくるでしょう。画家のモネが積み藁や睡蓮を描き続けたのも、恐らくモネ自身にしか見えない物があったからでしょうし、それは古今東西、様々な画家に言えることです。そして極端な言い方をすれば、人間一人一人の「見えているもの」は似ていたり共通しているものもあるけど、やはりそれぞれ「違う」のです。

 これは私の個人的な考えですが、画家が絵を描くのはやはり「自分の目でしか見えなかったもの」を「他の人に対しても見えるようにすること、或は気づかせてあげること」だと考えています。少し傲慢な言い方ですが、大筋はこんなところでなかろうかと…

 きざったらしい言い方をすれば「ヴィジョンを共有する」ということになるでしょうか。描かずにはいられない、描きたいから描く、といった考えも個人レベルの話ならいいのですが、やはり多くの人に絵を見てもらいたい、評価してもらいたい、といった願望があるならば、やはりこういった「描くための理由」が必要になるでしょう。

 

 う~ん。また論点が少しずれたような気がしますが「見える」とか「見えない」というのは大体そんなところです。ちょっとしたことで見えるようになるものもあるし、その道を究めないと見えないものもある…実際の所「見える」ということはもっと奥深い話なのですが、今回はここまで。次回は「実在の対象」について考察したいと思います。

 

 

最近作った少作品です。宗教画など西洋絵画の手の部分だけを集めてコラージュした作品になっております。祈りの手、記号的な手、何かを隠す手…色々ありますが、この作品は示唆や意味などを一旦画面から排除し、フラット化された「手」のムーブメントそのものを純粋なヴィジュアルとして捉えた作品となっております。


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